作品紹介→東村アキコのルーツが赤裸々に:東村アキコ「かくかくしかじか」1巻
2巻レビュー→後悔先に立たず…なのですが:東村アキコ「かくかくしかじか」2巻
東村アキコ「かくかくしかじか」(3)
両方は 無理なんだ
■3巻発売しました。
美大を卒業したあと、就職せずに宮崎に帰った明子。日高先生に再会し…。少女漫画家を夢見たあの頃を描く、ドラマチック・メモリーズ第三弾!!
〜3巻です〜
3巻発売しました。なんかすげーふざけた格好した表紙ですが、これちゃんとした思い出のひとつなんですね。枇杷も、ウサギの被り物も。

物語中では、先生と一緒に採った枇杷が思い出の一つとして語られるのですが、確かに年上というか、年配の人との思い出ってのは割と果物とか植物とかが絡んでいることが多いような気もします。
私の場合、祖父母との思い出は、庭になっているプルーンの収穫と、くるみの収穫がそれ。特にくるみは思い出深くて、下から木の棒でばさばさとふるい落とすのですが、アスファルトにくるみが当たって割れる音と、周りをつつむ実の青臭い匂いが、今も仄かに思い出されます。そのくるみの木は、祖父が亡くなった後、周辺整備の一貫で切られてしまったのですが、その時は思い出が一つ失われたようで、すごく寂しかったのを覚えています。対象物こそ違えどくすぐられる感覚は主人公・明子と同じようなもので、自伝と言えど結構感動のスイッチが入ってしまいがちで怖い。
〜忙しいから出来る〜
さて、3巻では主に大学卒業後の彼女が描かれます。ニート期間を経て、とある通信会社に入ることに。はい、ちょうど「ひまわりっ!」で描かれた頃と被ります。
入社してから、多忙を極めた明子。しかしこの多忙が功を奏して、大学時代に一向に描くことのなかったマンガを仕事と絵画教室の合間に描き上げ、投稿。見事入賞し、デビューへと漕ぎ着けることになります。忙しいから出来るってのはなんとなくわかる感覚で、自分も残業しまくってる頃の方がちゃんとブログ更新してたし、資格の勉強とかもしていた気がします、今振り返ると。「仕事は忙しい人に頼め」とは仕事でしばしば聞かれる言葉ですが、不思議とそういう時の方が敏速に動けたりするのですよね。
〜その源泉がなんとなくわかった気がする〜
さて、2巻のレビューの時に、「なんでこう言ったのか良くわからなかった」と言ったシーンがありました。それが、これ。
感情の沸き立ちは、行動と結果を起因として沸き立つものですが、上記のシーンでの印象は、割となんてことない(簡単な)ことをやったのに大きなお金が入ってきたことへの違和感といった印象でした。そして3巻では、似たような状況が起こっているのです。それが、一気に書き上げたマンガが入賞して、9万円も入ってきたというもの。入賞をきっかけに、漫画か絵画かを選びとるという一つの転換点に明子は差し掛かるわけですが、そこで語られる絵画と漫画の対比が非常に印象的。

マンガは気楽で、絵画はしんどい。体力的にも、時間的にも、そしてお金的にも。大変さで言ったら、完全に絵画>マンガ。
ここで先の2巻のシーンに立ち返ると、なんとなく合点がいくというか。こんなにも苦労して作り上げる作品(=絵)はこんなにも評価されないのに、絵ほど労力のかからない作品(=漫画)はこんなにも評価されるという状況への悔しさなのかな、と。もちろん明子自身はマンガの世界を自ら選びとったわけで、彼女のみが素直にその感情を感じるのは変な話。どちらかといったら、悔しいと感じるべきは絵画側の人であって、むしろ明子が感じるべきは「申し訳なさ」だったりします。けれどもここで敢えて「悔しい」と表現しているのは、それくらい相手の立場に立てる(想いを込められる)人が、あちら側(絵画の世界)にいるということで、それは他でもない日高先生のことなのでしょう。日高先生のような人こそもっと報われるべきといった感情が、そこにはあるのかな、と。また最序盤から匂わせている、先生の死と照らし合わせると、「このお金で孝行できた」みたいな感情もあったりなかったりするのではなかろうか、とも。
2巻レビュー→後悔先に立たず…なのですが:東村アキコ「かくかくしかじか」2巻

両方は 無理なんだ
■3巻発売しました。
美大を卒業したあと、就職せずに宮崎に帰った明子。日高先生に再会し…。少女漫画家を夢見たあの頃を描く、ドラマチック・メモリーズ第三弾!!
〜3巻です〜
3巻発売しました。なんかすげーふざけた格好した表紙ですが、これちゃんとした思い出のひとつなんですね。枇杷も、ウサギの被り物も。

物語中では、先生と一緒に採った枇杷が思い出の一つとして語られるのですが、確かに年上というか、年配の人との思い出ってのは割と果物とか植物とかが絡んでいることが多いような気もします。
私の場合、祖父母との思い出は、庭になっているプルーンの収穫と、くるみの収穫がそれ。特にくるみは思い出深くて、下から木の棒でばさばさとふるい落とすのですが、アスファルトにくるみが当たって割れる音と、周りをつつむ実の青臭い匂いが、今も仄かに思い出されます。そのくるみの木は、祖父が亡くなった後、周辺整備の一貫で切られてしまったのですが、その時は思い出が一つ失われたようで、すごく寂しかったのを覚えています。対象物こそ違えどくすぐられる感覚は主人公・明子と同じようなもので、自伝と言えど結構感動のスイッチが入ってしまいがちで怖い。
〜忙しいから出来る〜
さて、3巻では主に大学卒業後の彼女が描かれます。ニート期間を経て、とある通信会社に入ることに。はい、ちょうど「ひまわりっ!」で描かれた頃と被ります。
入社してから、多忙を極めた明子。しかしこの多忙が功を奏して、大学時代に一向に描くことのなかったマンガを仕事と絵画教室の合間に描き上げ、投稿。見事入賞し、デビューへと漕ぎ着けることになります。忙しいから出来るってのはなんとなくわかる感覚で、自分も残業しまくってる頃の方がちゃんとブログ更新してたし、資格の勉強とかもしていた気がします、今振り返ると。「仕事は忙しい人に頼め」とは仕事でしばしば聞かれる言葉ですが、不思議とそういう時の方が敏速に動けたりするのですよね。
〜その源泉がなんとなくわかった気がする〜
さて、2巻のレビューの時に、「なんでこう言ったのか良くわからなかった」と言ったシーンがありました。それが、これ。
10年目くらいに子供のことを描いたマンガがポンっと売れて
私の口座に大きなお金が振り込まれた時
私は悔しくて悔しくて
しばらくそこから動けなかった
私の口座に大きなお金が振り込まれた時
私は悔しくて悔しくて
しばらくそこから動けなかった
感情の沸き立ちは、行動と結果を起因として沸き立つものですが、上記のシーンでの印象は、割となんてことない(簡単な)ことをやったのに大きなお金が入ってきたことへの違和感といった印象でした。そして3巻では、似たような状況が起こっているのです。それが、一気に書き上げたマンガが入賞して、9万円も入ってきたというもの。入賞をきっかけに、漫画か絵画かを選びとるという一つの転換点に明子は差し掛かるわけですが、そこで語られる絵画と漫画の対比が非常に印象的。

マンガは気楽で、絵画はしんどい。体力的にも、時間的にも、そしてお金的にも。大変さで言ったら、完全に絵画>マンガ。
ここで先の2巻のシーンに立ち返ると、なんとなく合点がいくというか。こんなにも苦労して作り上げる作品(=絵)はこんなにも評価されないのに、絵ほど労力のかからない作品(=漫画)はこんなにも評価されるという状況への悔しさなのかな、と。もちろん明子自身はマンガの世界を自ら選びとったわけで、彼女のみが素直にその感情を感じるのは変な話。どちらかといったら、悔しいと感じるべきは絵画側の人であって、むしろ明子が感じるべきは「申し訳なさ」だったりします。けれどもここで敢えて「悔しい」と表現しているのは、それくらい相手の立場に立てる(想いを込められる)人が、あちら側(絵画の世界)にいるということで、それは他でもない日高先生のことなのでしょう。日高先生のような人こそもっと報われるべきといった感情が、そこにはあるのかな、と。また最序盤から匂わせている、先生の死と照らし合わせると、「このお金で孝行できた」みたいな感情もあったりなかったりするのではなかろうか、とも。